鈴木建設 原点の物語 苦進楽慎の道のり

~受け継がれる創業者 鈴木菊男の志~

Prologue 受け継がれる創業の志

鈴木建設に残る一冊の本があります。『激流に生きて』。
ここには鈴木建設の創業者である、故 鈴木菊男会長の生涯が記されています。
本来であれば、青春真っ只中のはずの二十歳から二十九歳の間を
戦火の中で過ごし、幾度も命の危険にあいながら帰還。

その後、戦後の復興の中、鈴木建設を創業。
様々な困難にあいながらも、苦しい時こそ進み、楽なときこそ慎むという
『苦進楽慎』の志で、四つの会社の経営者となりました。

鈴木建設には今でも『苦進楽慎』の志が堅く受け継がれています。
鈴木会長のみならず、この日本を支えてきてくださった先人の業と精神を想うと、
我々はどのような足跡を残すことができるかと身が引き締まるばかりです。

それでは、まさに激流を生きたその生涯を「激流に生きて」の本を元に少しご紹介したいと思います。

大正4年、山形県尾花沢市の裕福な家庭に生まれる
大正六年頃、自宅の菊の前にて
七歳の時に叔父の事業失敗で、生活が一転

この日を境に、鈴木の家庭は一転、貧乏のどん底へと転げ落ちていくのである。
鈴木は、その家庭環境の激変ぶりをこう振り返る。

「とにかく、シャツ一枚もかってもらえんようになった。
子供心に何か大変なことになったんだなと感じたもんです。」

(中略)

どんなに家計が困窮しても、鈴木ら子どもたちには、

「人に迷惑はかけるな」
「まっすぐに生きなさい」
「自分でできることは自分でやりなさい」

と諭し続けた。今になって思えば、母の類まれな精神力の強さが、
そのまま鈴木の生きるべき指針として形成されて行ったといえるかもしれない。

『激流に生きて』より

家の窮乏で、旧制中学を断念。

家の窮乏で、旧制中学を断念するが、
母の懇請がきっかけで北海道の旭川中学に合格。

「皆さんにお願いします。菊男を師範学校に入れてやりたいんですが、
家にはお金がありません。皆さんの中で誰でもいいから、
どうか菊男を師範学校にたしてもらえませんでしょうか。」

いきなりのしげの懇請に、一同はキョトンとしたままだった。

(中略)

「為せば、成る」の気概であった。その熱意が通じてというべきか、
鈴木は見事、難関中の難関である旭川中学校に合格するのである。

『激流に生きて』より

柔道の練習に励む人々。

全校でただ一人有段資格をとる。
卒業後、札幌鉄道局でさらに柔道を磨く。

二〇歳で徴集。銃弾をかいくぐって過ごした青春時代。

戦闘は日ごとに激しさを増していく。砲弾と銃弾をかいくぐっての行軍は夜を日に継いで続いた。

(中略)

鈴木は戦争とは人間を極限状態にまで追い詰めるものだと断言する。気がふれる者、酒に溺れる者・・・
そんな同胞たちの姿をどれだけ見てきたことか。絶えず死と隣り合わせていると、それも無理からぬことだと鈴木は今になって思う。

(中略)

「菊男、菊男。戦地に行っても、卑怯な振る舞いだけはしてはならんよ。
どんなに苦しい時でも、母が必ずお前を見守っているからね。」
そう言いながらしげは、丈が10センチほどの一体の観音像を鈴木に手渡した。

(中略)

「もうコマ切れの肉片が海の四方八方に散乱しつくしているという感じです。
生き残った兵士がそれらをかき集めて、スコップでどんぐるすという袋に次から次へと放り込むんです。
袋は何百にもなりましたわ。もう悲しくて、悔しくてね。作業している間、涙がポタポタ落ちてね。
戦争というのは、そんなむごいものなんですわ。」

“涙の埋葬”を振り返る鈴木はそう言って何度も目頭を拭うのだった。

『激流に生きて』より

終戦後、最愛の妻正子と巡り会う

就職のため、石川県へ。
しかし、二年後事業閉鎖のため、職を失う。

石投げから始まった鈴木建設

妻の正子が、嫁入り道具として持ってきた着物などを質屋にそっと運んでいたことも、
鈴木は知っていた。鈴木は焦っていた。

そんな日が続いた五月の半ば、やはり鈴木は犀川の河畔に佇んでいた。薫風がわたる川面は、
五月の陽光を受けてキラキラ輝いている。鈴木は何気なく石を拾ってはその川面に投げ込んでいた。
「何かをしなければ・・・。」そう問いかけながら、鈴木はポツン、ポツンと石を投げ続ける。

その時、ふと思いついたのが、いま鈴木が投げている「石」であった。
「この石を使って何かできないものか?」「戦争の後で、道路も荒れ放題だし、建物も木造からビルに変わっていく」
「何かできるかもしれない」。そんな思いが次から次へと駆けめぐった。

それは、ほとんど閃きと言ってもよかった。「この犀川の石を使って、きっと何かができるに違いない。」

『激流に生きて』より

以下、妻の正子夫人談より。

「創業は、石炭車のシボレー2台からの出発でした。当時は川の中に入って全部手作業で犀川の砂利をあつめていました。
砂利は私たちにとって稼ぎそのもの。だから一粒でも無駄にしないように大事にしていました。

初めての仕事はマンションを作るための砂利の搬入で、それが出来上がった時の感動はひとしおでした。
今でも忘れないその仕事の報酬は10万円。しかし、初めての報酬は手形でそれをどうしても割ることができず、
つてを頼って土下座までしてなんとか現金を手にすることができました。

やっと手に入れた10万円を燃料やお給料にあてがったのを覚えています。

仕事が軌道に乗り始めたころ、主人は自動で砂利をひろう機械を買うかどうかを悩んでいました。
なぜなら、そのころには食べていくだけの蓄えもできていたので正直、砂利屋をやめようかとも考えていたからです。

しかし、「私ら裸一貫できたんだからできるとこまでやったら?」といったところ、全財産をかけて機械を購入。
手取川にそれを設置して、砂利屋を再開したのです。雨や台風で増水があるたびに気が気ではありませんでした。
少しでも雨が降ると川へ行って私財をなげうった機械が倒れないように二人で祈っていました。」

※1 愛車ヒルマンの前で
※2 念願のリコー(陸王)購入
※3 鈴木組を興した青年社長のころ
※4 各新聞社に取材を受けることに多数
※1 昭和62年春の園遊会にて

その後、鈴木建設株式会社、石川生コンクリート株式会社、宇清商事株式会社、鈴木石産株式会社の代表を経た後、
金沢医科大学の再建のため理事長に就任。その他、様々な社会活動に貢献したのち昭和六三年五月二八日、七十二歳をもって永眠。

もしあの戦火の中、強く生きることをやめていたら...。もしあの石投げの時の閃きに己を捧げていなかったら...。そう思うと、
決して屈しない強さと、どんな窮地でも絶対にあきらめずチャンスにする前向きさを我々後世の人間もしっかりと受け継ぎ、
今日も一歩一歩確実に苦進楽慎の精神で仲間たちと一緒にお客様や地域の皆様のために明日を創造していこうと思う次第です。